人生の悩みの8割は「人間関係」であると言われています。この言葉には多くの人が納得されると思います。
人間関係の悩みには様々な要素が絡んでおり、複雑なため解決が難しい。そう考える方は多いのではないでしょうか。私も以前はそう思っていました。
しかし、最近、ある出来事により、人間関係の悩みって意外と単純なのではないかと思うようになりました。
人生は縄張り争いだと気付いた出来事
ある出来事とは、今、住んでいるアパートでの騒音、悪臭トラブルです。もう何年も隣人の悪臭が原因で窓が開けられない状態なのですが、隣人はまったく意に介しません。なぜなら、彼女の頭の中では、「ベランダは隅から隅まで私のテリトリー」という滅茶苦茶な理屈が成り立っているからです。なんだったら、アパートの前の道路も彼女のテリトリーですし、お隣の家の庭も彼女のテリトリーなので、誰かが道路を通るのも禁止ですし、庭に出て遊ぶのも禁止です。
では、彼女が勝手に設定した「マイ・ルール」を他者が破るとどうなるのか?
激しい騒音と悪臭による嫌がらせが待っています。
そんな中、私はこの歳になって、やっと次のように悟りました。
「人生は果てしない縄張り争いの連続である」
つまり、人と人とのトラブルは、すべて単純な縄張り争いに端を発していると思うに至ったのです。
誤解されるといけないので、少し補足しますと、答えは単純明快です。しかし、根は深くて複雑な問題です。
人が縄張り争いを繰り返すのはなぜか?
人が争いを繰り返すのはなぜでしょうか?それは少しでも自分の縄張りを広げ、より快適に暮らしたいからです。これは動物としての本能なので、理屈や理性ではどうにもなりません。本能という単純で根源的な部分は、理性ではコントロールできません。だからこそを、悩みは深いのです。
皆さんは、「人間は高い知能を持ち、高度に発達した文明社会で生きているので、動物のような縄張り争いはしない」と思っていらっしゃるかもしれません。しかし、人間は本当に知的な生き物でしょうか?むしろ、どんな動物たちよりも、縄張り争いに明け暮れている下等な生き物ではないでしょうか。高度に発達した社会で、狭い空間にひきめしあって生きているのですから、右を向いても、左を向いても、衝突するのは当然です。それゆえ、私たちの人生は終わりのない縄張り争いなってしまうのです。
快適に暮らせる空間(快適空間)を求めて
ここまで読んでもまだ納得されない方々のために、「縄張り」という表現を「快適に暮らせる空間」に置き換えてみましょう。
「縄張り争い」の一番わかりやすい例は、ご近所との境界争いではないでしょうか。戸建てでも、集合住宅のトラブルでも根は同じです。自分が快適に暮らすために、人は他者の利益を損なってでも、自分の縄張りを広げようとするのです。
記憶を遡れば、私たちは保育園でも幼稚園でも「快適に暮らせる空間」を求めて、お友達と争っていたのではないでしょうか。おもちゃや遊具の取り合いに始まり、嫌いな子の排除まで、私達は物心つかないうちから、動物としての本能を遺憾なく発揮していたのです。これは生きるための本能なので、どんなに文明が発達し、社会が高度化しても、なくなりません。生存本能が強い個体は社会の中で強者となり、弱い個体はいじめまたは排除の対象となります。
小、中、高と続く縄張り争い
そして、当然ながらこのような縄張り争いは幼稚園だけに留まらず、小学校、中学校、高校…と続きます。なんだったら、大人になって知恵がついた分、より面倒なことになったりします。学校でのカースト制度然り、会社でのポジション争い然り。いつでも、どこでも、人が集まれば、私達は自分の快適空間を守るために、または広げるために、意識的に、または無意識に他者を押し退け、排除しようとしてきました。
さらにお馬鹿な人達は、さほど混んでいない電車やバスの中でさえ、自分の快適空間を広げるために小競り合いを起こしています。不必要な争いは避ける動物たちから見たら、私たち人間はなんと愚かなことか!
皆さんはご存じですか?人間が起こす縄張り争いの中で最も規模の大きいものを「戦争」と呼ぶことを。これが「万物の霊長」と自認している生き物の実態なのです。
家庭内での縄張り争い
この縄張り争いは、家庭の外だけではなく、家庭の中でも起こります。例えば、反りの合わない兄弟や子供の排除、えこひいきなども縄張り争いの一種なのです。
家の中でも外でも、縄張り争いに負けた弱い個体は排除され、居場所を失います。彼らは不登校や引きこもり、窓際族、職を転々とする底辺労働者となって、理不尽さに耐えながら身を縮めて生きていかなければなりません。
争いなんてしたくない
心優しく、感受性が強い皆さんは、「縄張り争いなんてしたくない。誰とも争わず、誰とも憎み合わずに生きていきたいよ」と思っているかもしれません。しかし、本能が人を動かしている限り、それは叶わぬ願いです。あなたがそう思っていても、相手がそう思わなければ、縄張り争いを回避することはできません。人は一生、縄張り争いから逃れることができないのです。たとえ出家したとしても、ある程度の縄張り争いは避けられないでしょう。
こんなふうに書くと、なんだか救いがないように思われるかもしれません。しかし、この「人生は終わりのない縄張り争い」という私の説にも、一つだけ救いがあります。それは敗者が必ずしも「悪人」ではないという点です。
縄張り争いは子供の喧嘩と同じです。口が達者な方、体が大きい方、人数が多い方が勝つだけです。彼らは自分が正しいから勝ったと思っているでしょうが、けして彼らが正しいわけではありません。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言うように、世間では縄張り争いに負けた者に対して、「敗者」のレッテルだけではなく、「悪人」のレッテルまで貼ることがあります。しかし、あなたが彼らに負けたのは、あなたが「悪人」だったからではありません。単に、彼らがあなたよりも乱暴者だっただけに過ぎません。それを忘れないでください。
もしかしたら、あなたは彼らのように情け容赦なく振舞えなかったかもしれません。酷い事をする相手にさえ、思い遣りを示してしまったのかもしれません。だから彼らに負けたのかもしれません。そんな自分を「悪人」だと思う必要がありますか?自分の優しさに誇りを持ってください。そして、必要以上に自分を責めないでください。
自慢ではありませんが、私も人生のありとあらゆる局面で、縄張り争いに負けてきました。そしてこの答えに辿りつくまでは、ずっと自分が悪いと思っていました。
現代では、「弱さ」を「悪」と考える人もいるようです。彼らの考え方はこうです。「弱い奴が悪い」、「逆らえない奴が悪い」、「騙される奴が悪い」。世知辛い世の中です。
しかし、「弱さ」は「悪」ではありません。「愚かさ」や「無知」こそが「悪」なのです。
弱者が現代を生き抜く方法
そんな現代で、弱者が生き延びる方法は一つです。個体レベルであっても、国レベルであっても方法は同じです。無知を憎み、賢くなることです。そして、強者と真っ向から対決するのでなく、争いをできるだけ賢く避けながら、知恵を使って他者や他国にはない魅力で勝負するのです。
現代では、「弱さ」を「悪」と考える人もいるようです。彼らの考え方はこうです。「弱い奴が悪い」、「逆らえない奴が悪い」、「騙される奴が悪い」。世知辛い世の中です。
しかし、「弱さ」は「悪」ではありません。「愚かさ」や「無知」こそが「悪」なのです。
そんな現代で、弱者が生き延びる方法は一つです。個体レベルであっても、国レベルであっても方法は同じです。無知を憎み、賢くなることです。そして、強者と真っ向から対決するのでなく、争いをできるだけ賢く避けながら、知恵を使って他者や他国にはない魅力で勝負することです。
(無用な争いはできるだけ避けるべきですが、人生には、逃げずに戦わなくてはならない時があります。その時は、ぐっと踏ん張りましょう。私も必要がある時は隣人と戦っています。)
コンピュータやSNSが発達した時代に生まれた現代の「弱者」は、昔の「弱者」に比べれたら何倍も有利です。情報が大きな価値を持つ時代では、力がなくても、資産がなくても、知恵を使えば勝者になれる可能性があります。限りある人生において、賢くありましょう。知恵をつけ、自信をつけましょう。自分を軽んじ、不当に扱い、勝手な都合を押し付けてくる人たちに振り回されない人生を送れるようになりましょう。
私も唯一の武器である「書く」という能力を生かして、ブログで収入を得て、いつか今のアパートから引っ越し、平穏な生活を手に入れたいと思っています。
一方で、暴力と嫌がらせで人を従わせようとするジャイアンには、束の間の勝利はあっても、人生の最後まで平安は訪れないでしょう。善い行いよりも悪い行いを好んだ者の末路は悲惨です。彼らは終日、悪を行うことを望んだので、夜がやってくると(老いが進むと)、報いとして孤独で争いの絶えない、一瞬たりとも平安のない人生を送らなければならなくなるのです。若くて元気な時は耐えられた争いや孤独も、年を取って気力や体力が衰えると耐え難くなります。
人生は終わりのない縄張り争い
人生は終わりのない縄張り争いです。誰も縄張り争いから逃れることはできません。そして、先のことは誰にも分かりません。もしも、あなたが今、縄張り争いに負けて、日陰の地に追いやられているとしても、いつかは蜜と乳の流れる地*に住めるようになるかもしれません。SNSが発達した現代では、何がきっかけで思いがけない幸運が舞い込んでくるかわかりません。
情報を賢く取捨選択し、あなたの武器にしましょう。この武器はとても軽くて、24時間、装着していても負担になりません。体が弱い人でも、病気の人でも装着できます。この武器は平和と平穏をもたらす手段にもなります。(但し、使い方を誤ると、恐ろしい武器になりますが。)
元気を出してください。一緒に頑張りましょう。難しい事ですが、あなたの一部分だけを見て、勝手なレッテルを貼る人たちは気にしないようにしましょう。人生の卒業試験は最後の一日まで続きます。長く続く卒業試験において、辛抱強くありましょう。
今これを読んでくださっている皆さんや、そしてもちろん私自身も終わりの日には、笑って卒業できるといいですね。
*乳と蜜の流れる地
神がアブラハムの子孫に与えると約束した地「カナン」。現在のパレスチナ。“乳と蜜の流れる土地”と表現されるほど肥沃な土地だった。現代でも、豊かな土地の代名詞として使われることがある。残念ながら、この地をめぐっては、旧約聖書の時代から争いが絶えない。
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