小咲ももさんの話
このお話、ブログランキングでも上位に上がっているので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、深いお話なのでここでもシェアさせてください。
小咲ももさん:Togetter(トゥギャッター)
子供の頃「あんた走るの遅いから」といじめっ子と毎日放課後一緒に走るようになった
中学1年の時、少しだけいじめられていた時期があった。いじめの期間自体は短かったけど、その後はスクールカースト底辺として派手な子達に見下されたり馬鹿にされたりして過ごした。
中学3年の時、いじめの首謀者の女子に「あんた走るの遅いから、マラソン大会の練習しようや!」と言われ、1ヶ月ぐらい毎日放課後一緒に走ることになった。
私たちは制服姿で校庭を一周した。走りながら雑談もした。
私は極度の運動音痴で、球技は毎回失敗するし競争では毎回ビリだったが、その年のマラソン大会では、鍛えた成果かビリにはならず、その時初めて「私でも練習すれば速くなるんだ」という自信がついた。
何故いじめっ子が、いきなり私にそんなことをしたのか不明だったが、他にも親しげに話しかけてくれたりとやたらとフレンドリーだった。
私は優しくしてもらうとすぐに、良い人だなあと素直に思ってしまうタイプなので、いじめっ子が優しくしてくれて嬉しかったという記憶が残っていた。
大人になって打算と善意の両方に気付いた
しかし…
数年前にそのことを思い出した時、あれは内申のためだったのかなあと思うようになった。
いじめっ子は成績が良く賢い子だったから、私にいじめられたことを告発されて進路に響かないように、優しくすることでそれを防いだのかなと思った。普通に考えればすぐ気づきそうな事なのに、安易に「良い人」と信じた自分が本当におめでたくて恥ずかしいなと思い始め、モヤモヤした。
でも最近、そこから気持ちが進化した。
いじめっ子の優しさは打算からきたものかもしれないけど、それでも放課後、部活する人に見られながら制服姿で一緒に走ってくれるのは、なかなかできることじゃない。
結果、私は練習の大切さに気づけたし、自信にも繋がった。
それで良かったんじゃないかなと。
この世の善意は必ずしも100%の善意でできてるわけじゃない。
承認欲求だったり、優越感だったり、贖罪だったり、打算だったりが混じっている。
私がしている善意も、そういうものが混じってるんだと思う。
人間には、良い部分も悪い部分もある。だから、そういう物が入り混じっていて当たり前なんだと思う。
大切なのは、善意を施す側になった時に、「これは打算もあるな」と、自分が完全な善人ではないことを認めながらすること。
施される側になった時は、相手に完全な善人であると期待しない事と、感謝できる部分には感謝することかなと思う。
自分を完全な善人と思い込むことは、自分に嘘をつくことになるし、相手を完全な善人と見做すことは、理想の押し付けになってしまうから。
私はいじめっ子が一緒に走ってくれたことには今も感謝していて、あの時間は中学時代の良い思い出になっている。